1990年3月
◆1990年3月15日スタート◆
「民事裁判を起こすには費用や手続きが心配」--日ごろ裁判とは無縁な一般市民のこうした悩みにこたえようと、第二東京弁護士会(田宮甫会長)は1990年、弁護士、法律学者らを「仲裁人」として、裁判外で紛争解決にあたるための「仲裁センター」を、第二東京弁護士会内に設置することを決めた。いわば「裁判の民営化」で、裁判費用の負担減、審理期間の短縮などに大きな効果が望めるという。わが国の司法界初の試みだった。
仲裁制度は、紛争当事者の申し立てがあると、公平な第3者が「仲裁人」に選出され、当事者双方の主張を聞いたうえで「裁定」を下したり、和解させたりするもの。民事訴訟法に規定があり、裁定は、当事者の間では裁判所が下した確定判決と同じ効力を持つ。現在、労働委員会、公害等調整委員会などでこの制度が用いられている。
第二東京弁護士会は、この制度を金銭貸借、家賃改定、損害賠償、売買代金などの「少額民事事件」の紛争解決に応用するため、仲裁機関としての「仲裁センター」を、1990年3月15日、第二東京弁護士会に設置した。仲裁人には、塚本重頼・元最高裁判事、坂井芳雄・元名古屋高裁長官、青山善充・東大教授、小島武司・中央大教授、それにベテラン弁護士ら約20人。
仲裁制度の最大の長所は費用軽減と審理期間の短縮。例えば「100万円を支払え」という訴訟を裁判所に起こすと、着手金、成功報酬、諸経費などで約30万円の弁護士費用がかかるが、仲裁センター利用の場合、計10万円前後で済む。審理回数も通常1、2回で、正式裁判の審理期間(簡裁平均3・3か月、地裁11・9か月=1988年(昭和63年))に比べ負担が少なかったという。

大橋直久


 原油に関しては、国際価格の下落が始まったのは最近ではない。石油輸出国機構(OPEC)の盟主であるサウジアラビアが14年秋以降、頑として減産に応じず、シェアの維持にこだわって、価格低下を容認してきた経緯がある。なぜか。

 一つの理由は、生産コストの高いシェール原油が米国で生産を伸ばしているため、減産によって原油価格が上昇すれば、シェール原油を利するからだ。しかし、もう一つの理由は政治的であり、イスラム教シーア派が支配する国家として中東地域で革命を輸出し、テロ組織を支援してきたイランとの覇権争いが背景にある。原油価格の低迷は、石油輸出に頼るイランを苦しめる。豊富な外貨準備高を誇るサウジならではの「武器」が原油安でもある。

 そのサウジが、年初早々の1月2日に国内少数派であるシーア派(人口の10~15%)の指導者ニムル師を含む47人の処刑を実行。怒ったイランの大衆がテヘランのサウジ大使館に乱入するや、3日には対イラン断交に踏み切った。ニムル師を処刑すれば、イランが怒る。それを利用して断交し、緊張を高めるのがサウジの戦略とみる専門家もいる。

 サウジでは1年前の15年1月に当時のアブドラ国王が死去し、現在のサルマン国王が即位した。その後、ムハンマド内相が皇太子に昇格し、国王子息のムハンマド国防相が副皇太子に起用される抜てき人事があった。ムハンマド副皇太子は30歳前後であり、サウジでは異例の昇進である。同副皇太子は国王が後ろ盾だからか、あるいは若さ故か、以前と比べてはるかに積極的で攻撃的な外交・軍事政策を展開し、南隣のイエメンへの軍事介入などの強硬策を推進してきたといわれる。

 イランを挑発するニムル師処刑は、サウジ王室の対外姿勢の変質を象徴するものであり、今後中東地域でイランとの確執がどのように展開していくかのカギを握っている。

戸川利郎(naoyakiyohar5)



尊属殺人罪(刑法200条)は、平等原則を保障する憲法14条に違反していた。


最高裁大法廷が、その違憲判断をしたのは、昭和48年4月4日。


わが国初の法令違憲判決であった。



この時、私は18歳。


「法の支配」は、「憲法の支配」という意味であり、「法律の支配」ではない。


これから司法国家になっていくのだ」と、大学に入学したばかりの私は、時代の幕開けを感じ、ワクワクしていた。



その時の刑法には、次のように規定されていた。


第百九十九条 人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ3年以上ノ懲役ニ処ス


第二百条 自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス



「人ヲ殺シタル者」(殺人犯)の処罰規定で十分に対処できるにもかかわらず、そのうち「直系尊属ヲ殺シタル者」を特段に重く処罰する法律になっていた。


それゆえに、法の下の平等(憲法14条)に反するとの見解が有力だった。



違憲判決に至った事案は、あまりにも衝撃的なものであった。




A女は、父母や弟妹たちと共に暮らしていた。


A女が14歳の時、実父は、A女に対する強姦に及ぶ。


以後十数年にわたり、父子相姦の生活を余儀なくされるに至る。


母や親族の説得は効を奏せず、家出をしても執拗に追いかけられ、連れ戻されてしまう。


性奴隷とされたA女は、実父の子を相次いで5人出産する。


A女は、生計のため印刷所で働くようになり、そこで、相思相愛となった青年との結婚を夢みる。この時、A女29歳。


しかし、獣欲に固執する実父は、断固これを許さず、脅迫・暴行・強要の日々が続く。


襲いかかられたA女は、実父の支配を脱するためには殺害するほかないと決意し、紐を実父の頸部に巻きつけて窒息死させ、自首した。




第一審判決は、刑法200条を違憲と判断したうえ、刑を免除した。


しかし、控訴審では、合憲とされ、減軽のうえ懲役3年6月の実刑となる。


最高裁は、刑法200条を違憲として199条を適用し、執行猶予付きの有罪判決を下した。




こうして法令違憲判決が確定したが、最高裁の判旨は、生ぬるいものであった。


これほど深刻な事案であるにもかかわらず、多数意見は「尊属に対する尊重報恩は、社会生活上の基本的道義」だとし、差別そのものは違憲ではないが、「加重の程度が極端で」「立法目的達成のため必要な限度を遥かに超え」「著しく不合理な差別的取扱い」だとした。


差別違憲説ではなく、重罰違憲説が採用されたのである。


 


このレベルの違憲判決では、直ちに国会を動かす力はなかった。


最高検察庁が、尊属殺であっても199条で処理するよう通達して、量刑上の不都合を回避したため、刑法そのものには修正が加えられなかった。




平成7年、ようやく尊属殺規定(200条)は、刑法典から削除されることとなった。


この時点では、国会が、差別違憲説を取り入れたわけである。


したがって、尊属傷害致死(205条2項)、尊属保護責任者遺棄(218条2項)、尊属逮捕監禁(220条2項)も、同時に削られた。




法の支配(憲法の支配)は、違憲審査権によってこそ担保されるのであるが、違憲判決には当該事案限りの効力(個別的効力)しかないため、三権分立が本格的に機能するためには、断固たる司法判断が必要とされるのである。




ちなみに、国民の法的確信に何ら変化がないのに、行政判断だけで、憲法9条の中身が変遷してしまうようでは、司法国家というには程遠い。


憲法訴訟へのチャレンジが必要とされ、明確な司法判断が望まれる所以である。


 


 行政書士・社会保険労務士 大久保宏明(元検事・元弁護士)

【プライバシー権とは】


 プライバシー(privacy)が権利として主張されるようになったのは、19世紀末のことであった。

 ブランダイスらが1890年の論文で「a right to be let alone」と表現したため、「一人にしておいてもらう権利」「ひとりで放っておいてもらう権利」などと訳されている。

 

【私人間の権利として】
 

 当初、プライバシーの権利は、民法上の権利として把握された。

 つまり、私人間における不法行為法上の法的利益と捉えられたのである。


 「表現の自由VSプライバシー」という問題提起は、「宴のあと」事件判決(東京地判S39.9.28下民集15-9-2317)を先例とするが、それは不法行為に基づく損害賠償請求を認容した判決であった。

 当該判決は、「正当な理由がなく他人の私事を公開することが許されてはならないことは言うまでもないところである」として、プライバシーの権利性を肯定した。

 

【憲法上の人権として】


 アメリカでは、1965年の連邦最高裁判決によって、プライバシーは、憲法上の権利(つまり対公権力レベルの人権)として認知された。

 この判決は、避妊用具の使用を禁じる州法を違憲無効とした。


 わが国では、「宴のあと」事件があまりにも有名であるため忘れられがちであるが、裁判例としては、少々早く憲法上の人権として論じられていた(大阪高判S39.5.30判時381-17)。

 警察官によるデモ行進の写真撮影が人権侵害ではないかとされた事例であった。

 その後、同じく警察官によるデモ行進状況の写真撮影が問題とされ、いわゆる京都府学連事件判決(最大判S44.12.24刑集23-12-1625)は、「個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態を撮影されない自由を有する」と判示した。

 

【積極的権利として】


 情報化の進んだ今、プライバシーの権利は、より積極的なものとして説明されている。

 いまや、「自己に関する情報をコントロールする権利」こそ、プラーバシー権の本質的内容であるといわれている。
 
 自分の情報を削除できなければ、プライバシーの権利を有しているとはいえない。
 
行政書士・社会保険労務士 大久保宏明(元検事・元弁護士)


【1】起承転結の「起」

(起)
世の中には、同じ顔をした人間が3人いるという。
私は、自分と全く同じ顔の人に出会ったことがある。六本木で一緒に飲んだ。
まるで、鏡を見ているようで、友人たちも、みなビックリしていた。
もう一人、いつか会えるかもしれない。

(承)
顔はともかく、どうも、私と同姓同名の人たちには、「先生」が多いようだ。名前負けしないよう努力しよう。
ここでは、文章の作成について考えるのであるが、同姓同名のある先生が、「起承転結にとらわれるな」と論じているのは、確かにそのとおりだ。自由に論じたいのなら、形にとらわれるのは得策でない。

(転)
しかし、それは上級者向けの話であって、文章作成の初心者は、やはり、まず起承転結を学んでほしい。
そうでないと、読み手に伝わらないからである。

(結)
政治家・学者・法律家等にとって、第1に問題の所在、第2に自説(結論)、第3に理由づけ、この3要素がなければならないことは、概ね争いがないであろう。
この3つの要素のうち、どこか1つを分岐させれば、簡単に起承転結の文章になる。
文章が上手に書けないと自覚している人たちには、これだけを知っておいてほしいと説明している。

【2】起承転結の「承」

むかし、先輩(元日弁連会長)から教わったのは、次のような文章であった。
出典を知らないうえ記憶に頼っているので、誤りがあるかもしれないが、お許しいただきたい。

(起)
難波(なんば)浪速(なにわ)の、花屋の娘
(承)
姉は16、妹は14
(転)
諸国の大名、矢で殺す
(結)
花屋の娘は、目で殺す

【3】起承転結の「転」

①問題の所在、②自説(結論)、③理由づけ、この3要素から、簡単に起承転結の文章を作ることができる、と記した。どれくらい簡単か、例を示してみよう。

(起)
憲法は、言論、出版その他一切の表現の自由を保障している。これなくして、われわれの個人的・社会的生活は成り立たない。

(承)
なぜなら、自由主義的に考えれば、表現の自由は「自己実現」であり、民主主義的に考えれば、表現の自由は「自己統治」だからである。

(転)
しかし、憲法が保障している人権は、表現の自由だけではない。ある人の言論が、他者の人権を害することは、当然にありうる。だから、人権保障は、絶対的なものだと解してはならない。

(結)
そこで、憲法は、人権保障に制約があることを「公共の福祉」による制限だと規定しているわけである。
フランス人権宣言は、「他人を害しない全てのことをなしうる」力が「自由」である、と規定した。
わが国で、いわゆる内在的制約説が、「公共の福祉」を「人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理」と定義づけたことは、かようにして理解される。

【4】起承転結の「結」

さて、ここまでの長い文章に、どう決着をつけるか。
たとえば、「それゆえ、私は、言論の自由と人格権との調整を図るべく、プロバイダ責任制限法を研究している。」と結べば、ここに記した文章全体が「起承転結」となり、語ろうとする文脈の骨格が確立される。

ここからは余談であるが、意識的に結論を変えたいのであれば、問題の所在をすりかえればよいことになる。理由づけは、結論に沿って適当に取捨選択すればよい。
政治家・学者・法律家は、まさに、こうした手法で言葉を重宝に操っているのだから、基本を知らなければ、真実は見破れない。だから、起承転結を学べと論じているのである。

起承転結を基本としつつ、みずからを偽らずに中身を充実させていけば、達人の文章を作れるはずだ。しかし、それには、たいへん時間がかかる。
私は、その途上にあると信じているので、起承転結という基本から外れないように強く意識することがある。

行政書士・社会保険労務士大久保宏明(元検事・元弁護士)

~大久保宏明の法令散歩~ボアソナードに学ぶ

不平等条約を改めるという明治政府の悲願は、国内法の整備を促した。


欧州各国と肩を並べるために選択されたのは、フランス法の継受であった。


当時のドイツは統一国家ではなく、イギリスのコモン・ローはわが国には適していなかったという事情による。


明治6年、政府は、パリ大学教授であったボアソナードを招いた。


ボアソナードは、超国家的な人間の理性を重んじる自然法思想をわが国にもたらし、フランス法をもとにした旧刑法や治罪法(旧刑事訴訟法)の施行に大きな影響を与えた。

ボアソナードが命をかけた日本民法典の編纂により、旧民法の公布に至るが、イギリス法学派・ドイツ法学派・封建的思想論者等との間で法典論争が生じ、旧民法の施行は無期延期となった。

こうして、明治28年、ボアソナードは帰国した。


他方、伊藤博文らは、英仏の自由主義を良しとせず、ドイツの国家主義に基づいて極秘裏に明治憲法草案を起草し、明治23年、大日本帝国憲法が施行されたのである。

そして、ドイツ概念法学に傾斜したまま、国法秩序が整備されていった。


大雑把にいえば、ドイツ流の立憲主義的要素をもつ欽定憲法により、中央集権国家が樹立され、フランス流の個人主義的思想が後退して、わが国の政治的近代化が進められたことになる。


公布までこぎつけたフランス流の旧民法が施行されていたとしたら、少なくとも市民法分野は、かなり自由度の高いものになったのではなかろうか。

もしかしたら、第二次世界大戦を避けるチャンスがあったのではないか。


私ごときの歴史観で推し量ることは不可能であるが、再び中央集権化が進められている感がある今、国法秩序の行方について注視する必要があることだけは、間違いないと思う。


行政書士・社会保険労務士 大久保宏明(元検事・元弁護士)

弁護士をはじめとする法律専門職は、法令解釈の専門家ではあるが、法令の制定や改廃に関与する者は殆どいない。


内閣提出法案は内閣法制局で作られ、議員立法は議院法制局がサポートする。


各自治体には、法制執務担当者がおり、議会に提出する条例案を作っている。


政治家は政策を決定するが、法令の作り方までは知らなくてよい。


わが国の一部法改正は、「溶け込み方式」によって行われている。


これは、日本独特の法改正手法として定着している。


この話をすると、聞き手は不思議な顔をする。


法令を制定し、法令を改正し、法令を廃止する、その手法を定めた法令は存在しない。


これまた、みなさんに疑われるので、あまり話さないことにしている。


興味のある方は、石毛正純著「法制執務詳解新版Ⅱ」(平成25年7月5日第4版、ぎょうせい発行)257頁を参照されたい。


少々、引用させていただく。


「このような方式は、『溶け込み方式』と呼ばれ、我が国では、従来から法令の一部改正のための方式として用いられてきた。」


たとえば、「禁治産者」という法令用語が差別的であるという理由から「成年被後見人」に変わったことは、法律を勉強した者にとっては常識である。

では、どのように法改正をしたのであろうか。


まず、「A法律」そのものには触れず、「A法律の一部を改正する法律」を新たに制定し、「『禁治産者』を『成年被後見人』に改める」と規定する。


一部改正法は、国会で制定され、天皇が公布し、定められた施行日に溶け込む。


その結果、一部改正法施行後の「A法律」には「成年被後見人」とだけ表記されている。


「昔から、ワード文書の訂正・上書きのようなことが行われている」と私が説明したときに、学生の多くは妙に納得してくれた。


「でも、こうしたやり方は、日本特有の慣習にすぎない」と言うと、やはり学生たちは不信な表情を見せた。


余談であるが、「2段ロケット方式」と呼ばれる一部改正手法もある(法制執務詳解新版Ⅱ7頁)。


たとえば、消費税5%を、第1段階として7%に、第2段階として10%に引き上げることを、予め、いっぺんに制定法で規定しておくといった場合に用いられる。


ちなみに、法律は「官報」によって公布されているが、公布の方法を定める法律はない。


最高裁が「官報」をもってすることを認めたので、慣例として、官報に掲載して公布することになっているにすぎない。


行政書士・社会保険労務士 大久保宏明(元弁護士)