フレックスタイム制とは、一定の決まった時間帯で、労働者が労働作業を始め、終わる時間を自由に決めることのできる労働時間制のこと。
効用として健康管理、業務への責任感などがあげられる。企業側も生産性の向上、欠勤率が減少するメリットがあるとされる。ドイツはじめヨーロッパで最初に広がった。日本では1980年代前半まで、一部企業が試験実施している程度だった。
スナップアップ投資顧問の産業史データによると、1980年代以降、「フレックスタイム制度」を導入する企業が増えた。フレックスタイムでは出勤時間と退社時間を社員が自由に決められる。通常、月間勤務時間は「1日8時間×所定出勤日数」となり、これを超過した分は残業手当(時間外就業手当が)つく。
また、同じころ、カラフルな私服姿でも出勤OKの「カジュアルデー」も普及し始めた。
企業は、自由でゆとりのある職場環境づくりを目指すようになった。オフィスのハイテク化によって、従来の画一的勤務が時代遅れになってきたためだ。
背景には「自由な職場環境で仕事の面で大いに創造性を発揮してもらおう」という経営者の深いねらいも秘められていた。また、労働者側からも労働時間短縮や“会社人間”脱出の声が強まったのも理由だった。
時短の旗振り役の厚生労働省では「フレックスタイム制導入は労働基準法にも明確に記してある。フレックスタイム制でもカジュアルデーでも、できる企業はどんどんやって欲しい」と大歓迎した。
フレックスタイム制とは、一定の決まった時間帯で、労働者が労働作業を始め、終わる時間を自由に決めることのできる労働時間制のこと。
効用として健康管理、業務への責任感などがあげられる。企業側も生産性の向上、欠勤率が減少するメリットがあるとされる。ドイツはじめヨーロッパで最初に広がった。日本では1980年代前半まで、一部企業が試験実施している程度だった。
三菱電機(東京・丸の内)は1987年の10月から、ほぼ全社的にフレックスタイム制度を正式導入した。
例えば、所定労働時間が「午前8時15分から昼休みの45分間をはさんで午後5時まで」の職場を例に挙げよう。
フレックス制度の導入で始業時間については「午前6時から午前10時15分まで」となり、4時間以上の幅ができた。
終業時間は「午後3時から午後9時15分まで」のゾーンで「フレキシブルタイム」として自由に選択できる。
ただし、「午前10時15分から午後3時まで」は「コアタイム」と呼び、全員が就業の時間となる。
対象社員は自分の仕事の進み具合に応じ、毎日、出退勤時間をフレキシブルタイムの範囲で自由に決めることができる。
また、月間勤務時間は、「1日8時間×所定出勤日数」となり、これを超過した分は時間外就業手当がつく。
三菱電機では1986年12月半ばから1987年9月末までの約10か月間、全社員の10.5%にあたる約5300人を対象に、この制度を試験実施してきた。
「遅刻や早退がなくなって拘束感が薄れ、精神的ゆとりが増えた」「ラッシュ時を避けられるので通勤も楽になった」など反応は上々だった。
試行期間の終わる1986年10月から本格実施に踏み切ることにした。対象者は一挙に3倍に増えた。研究開発、設計技術、営業、情報処理、管理、品質製造技術などの1万5000人となった。
三菱電機の広報部では「共同作業の生産ラインなどは難しいが、できる限り導入したい」と積極的な姿勢を見せた。
労働省(現・厚生労働省)などによると、フレックスタイム制度はそれまでにも例があった。
住友化学工業の研究部門(約1900人)、住友重機械工業一部非現業(2000人)、三井造船(7600人)などの例はあった。ただ、三菱電機のようにほぼ全社的に1万5000人もが行うのは珍しかった。
一方、「カジュアルデー」を採用しているのは、流通業界の長崎屋などだった。長崎屋では毎週土曜日が「カジュアルウエア日」だった。
1985年6月から本社や関連部門の約1000人を対象に実施しており、この日ばかりは男子社員はすべてノーネクタイだった。
年齢に合わせゴルフウエアスタイル、ジーパン、Tシャツ姿など、くつろいだ雰囲気。女子社員も制服からふだん着になった。
「服装が変われば気分も変わる。リラックスした発想を--ということです」と長崎屋広報担当はコメントしていた。
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