尊属殺人罪(刑法200条)は、平等原則を保障する憲法14条に違反していた。
最高裁大法廷が、その違憲判断をしたのは、昭和48年4月4日。
わが国初の法令違憲判決であった。
この時、私は18歳。
「法の支配」は、「憲法の支配」という意味であり、「法律の支配」ではない。
これから司法国家になっていくのだ」と、大学に入学したばかりの私は、時代の幕開けを感じ、ワクワクしていた。
その時の刑法には、次のように規定されていた。
第百九十九条 人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ3年以上ノ懲役ニ処ス
第二百条 自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス
「人ヲ殺シタル者」(殺人犯)の処罰規定で十分に対処できるにもかかわらず、そのうち「直系尊属ヲ殺シタル者」を特段に重く処罰する法律になっていた。
それゆえに、法の下の平等(憲法14条)に反するとの見解が有力だった。
違憲判決に至った事案は、あまりにも衝撃的なものであった。
A女は、父母や弟妹たちと共に暮らしていた。
A女が14歳の時、実父は、A女に対する強姦に及ぶ。
以後十数年にわたり、父子相姦の生活を余儀なくされるに至る。
母や親族の説得は効を奏せず、家出をしても執拗に追いかけられ、連れ戻されてしまう。
性奴隷とされたA女は、実父の子を相次いで5人出産する。
A女は、生計のため印刷所で働くようになり、そこで、相思相愛となった青年との結婚を夢みる。この時、A女29歳。
しかし、獣欲に固執する実父は、断固これを許さず、脅迫・暴行・強要の日々が続く。
襲いかかられたA女は、実父の支配を脱するためには殺害するほかないと決意し、紐を実父の頸部に巻きつけて窒息死させ、自首した。
第一審判決は、刑法200条を違憲と判断したうえ、刑を免除した。
しかし、控訴審では、合憲とされ、減軽のうえ懲役3年6月の実刑となる。
最高裁は、刑法200条を違憲として199条を適用し、執行猶予付きの有罪判決を下した。
こうして法令違憲判決が確定したが、最高裁の判旨は、生ぬるいものであった。
これほど深刻な事案であるにもかかわらず、多数意見は「尊属に対する尊重報恩は、社会生活上の基本的道義」だとし、差別そのものは違憲ではないが、「加重の程度が極端で」「立法目的達成のため必要な限度を遥かに超え」「著しく不合理な差別的取扱い」だとした。
差別違憲説ではなく、重罰違憲説が採用されたのである。
このレベルの違憲判決では、直ちに国会を動かす力はなかった。
最高検察庁が、尊属殺であっても199条で処理するよう通達して、量刑上の不都合を回避したため、刑法そのものには修正が加えられなかった。
平成7年、ようやく尊属殺規定(200条)は、刑法典から削除されることとなった。
この時点では、国会が、差別違憲説を取り入れたわけである。
したがって、尊属傷害致死(205条2項)、尊属保護責任者遺棄(218条2項)、尊属逮捕監禁(220条2項)も、同時に削られた。
法の支配(憲法の支配)は、違憲審査権によってこそ担保されるのであるが、違憲判決には当該事案限りの効力(個別的効力)しかないため、三権分立が本格的に機能するためには、断固たる司法判断が必要とされるのである。
ちなみに、国民の法的確信に何ら変化がないのに、行政判断だけで、憲法9条の中身が変遷してしまうようでは、司法国家というには程遠い。
憲法訴訟へのチャレンジが必要とされ、明確な司法判断が望まれる所以である。
行政書士・社会保険労務士 大久保宏明(元検事・元弁護士)
不平等条約を改めるという明治政府の悲願は、国内法の整備を促した。
欧州各国と肩を並べるために選択されたのは、フランス法の継受であった。
当時のドイツは統一国家ではなく、イギリスのコモン・ローはわが国には適していなかったという事情による。
明治6年、政府は、パリ大学教授であったボアソナードを招いた。
ボアソナードは、超国家的な人間の理性を重んじる自然法思想をわが国にもたらし、フランス法をもとにした旧刑法や治罪法(旧刑事訴訟法)の施行に大きな影響を与えた。
ボアソナードが命をかけた日本民法典の編纂により、旧民法の公布に至るが、イギリス法学派・ドイツ法学派・封建的思想論者等との間で法典論争が生じ、旧民法の施行は無期延期となった。
こうして、明治28年、ボアソナードは帰国した。
他方、伊藤博文らは、英仏の自由主義を良しとせず、ドイツの国家主義に基づいて極秘裏に明治憲法草案を起草し、明治23年、大日本帝国憲法が施行されたのである。
そして、ドイツ概念法学に傾斜したまま、国法秩序が整備されていった。
大雑把にいえば、ドイツ流の立憲主義的要素をもつ欽定憲法により、中央集権国家が樹立され、フランス流の個人主義的思想が後退して、わが国の政治的近代化が進められたことになる。
公布までこぎつけたフランス流の旧民法が施行されていたとしたら、少なくとも市民法分野は、かなり自由度の高いものになったのではなかろうか。
もしかしたら、第二次世界大戦を避けるチャンスがあったのではないか。
私ごときの歴史観で推し量ることは不可能であるが、再び中央集権化が進められている感がある今、国法秩序の行方について注視する必要があることだけは、間違いないと思う。
行政書士・社会保険労務士 大久保宏明(元検事・元弁護士)
弁護士をはじめとする法律専門職は、法令解釈の専門家ではあるが、法令の制定や改廃に関与する者は殆どいない。
内閣提出法案は内閣法制局で作られ、議員立法は議院法制局がサポートする。
各自治体には、法制執務担当者がおり、議会に提出する条例案を作っている。
政治家は政策を決定するが、法令の作り方までは知らなくてよい。
わが国の一部法改正は、「溶け込み方式」によって行われている。
これは、日本独特の法改正手法として定着している。
この話をすると、聞き手は不思議な顔をする。
法令を制定し、法令を改正し、法令を廃止する、その手法を定めた法令は存在しない。
これまた、みなさんに疑われるので、あまり話さないことにしている。
興味のある方は、石毛正純著「法制執務詳解新版Ⅱ」(平成25年7月5日第4版、ぎょうせい発行)257頁を参照されたい。
少々、引用させていただく。
「このような方式は、『溶け込み方式』と呼ばれ、我が国では、従来から法令の一部改正のための方式として用いられてきた。」
たとえば、「禁治産者」という法令用語が差別的であるという理由から「成年被後見人」に変わったことは、法律を勉強した者にとっては常識である。
では、どのように法改正をしたのであろうか。
まず、「A法律」そのものには触れず、「A法律の一部を改正する法律」を新たに制定し、「『禁治産者』を『成年被後見人』に改める」と規定する。
一部改正法は、国会で制定され、天皇が公布し、定められた施行日に溶け込む。
その結果、一部改正法施行後の「A法律」には「成年被後見人」とだけ表記されている。
「昔から、ワード文書の訂正・上書きのようなことが行われている」と私が説明したときに、学生の多くは妙に納得してくれた。
「でも、こうしたやり方は、日本特有の慣習にすぎない」と言うと、やはり学生たちは不信な表情を見せた。
余談であるが、「2段ロケット方式」と呼ばれる一部改正手法もある(法制執務詳解新版Ⅱ7頁)。
たとえば、消費税5%を、第1段階として7%に、第2段階として10%に引き上げることを、予め、いっぺんに制定法で規定しておくといった場合に用いられる。
ちなみに、法律は「官報」によって公布されているが、公布の方法を定める法律はない。
最高裁が「官報」をもってすることを認めたので、慣例として、官報に掲載して公布することになっているにすぎない。
行政書士・社会保険労務士 大久保宏明(元弁護士)